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2025年11月16日 (日)

母が亡くなった

最近、母が亡くなり、告別式を終えたところ。

母が倒れたのが一昨年の1月下旬。脳梗塞で緊急入院し、左半身のマヒが残った。
その後2月中旬に退院してリハビリ病院に転院。
この頃はコロナ禍で面会もままならず、母の状況も良く分からなかった。
約2カ月後に退院して無事帰宅する事が出来た。
週3回のデイサービスを利用しながらの生活が始まった。

が、しばらくして心不全で緊急入院。心臓の具合が良くない事は、脳梗塞で入院していた病院を退院する際に初めて聞かされたのだが、まさか再入院するとは夢にも思わなかった。
その後6月初めに退院し、介護施設に入った。
まだコロナ禍であったが、それでも洗濯物の交換時に少しだけ話をすることが出来た。
約4カ月の入所の後10月初旬に退所して、やっと本当の帰宅となった。
それから週3回のデイサービス利用を復活させて、自宅での生活が始まった。
自宅での生活も順調ではなく、何度か救急搬送もあったが、それでも約1年の間自宅で過ごすことが出来た。

ところが去年の9月下旬に、早朝ベッドからすぐそばのポータブルトイレに移る際に転倒して骨折。
約3週間入院した後にリハビリ病院への転院が叶わず、自宅での介護が難しいため介護施設に入所。
週2回の洗濯物交換時に少しだけ話をしながら帰宅出来るチャンスを窺っていたが、コロナ禍が明けた2025年になって面会時間が延び、ゆっくり話をしたり、リハビリも兼ねた足の運動や本読みをしたりする事が出来るようになったものの、体の衰弱は進んでおり、次第に飲み込みが悪くなっていった。
同時に左半身のマヒも進んだのか、舌の動きが悪くなって何を話しているか聞き取り難くなっていった。こちらが聞き返す事が多くなり、本来話好きだった母も思うように話せないし聞き取ってもらえない事がもどかしかっただろう。

9月下旬になって、いよいよ飲み込みが難しくなり、終末ケアへと移行する事になった。
個室に移り、出来るだけ高カロリーのもので飲み込みやすいもの(例えばゼリーとかプリンとか)を食べさせていたが、とても体を保てる量ではなく、衰弱は進み言葉も次第に発しなくなり、寝ている時間が多くなっていった。
11月になり、遂には一口も飲み込めなくなって、いよいよ最後の時が近づいた事を知った。

そしてある日の朝、施設から母の呼吸が浅くなったとの連絡があって急いで施設に向かったところ、母が苦しそうに呼吸していた。
ただ、見ている方はそう見えても、本人はそれほど苦しくないとの話があった。
元々母に負担を掛けないよう、延命治療はしないと決めていたが、目の前の姿を見ていると気持ちが揺らいだ。
そして夜になり、母の呼吸が完全に止まった。顔は苦しそうではなかったのがせめてもの救いだった。
最後の時を迎えて、もっと涙が出ると思っていたが、そうではない自分に驚いた。

その後、服を着替え、綺麗に化粧をしてもらって帰宅。数日母と過ごす事が出来た。
その間、葬儀社とお寺さんと打ち合わせがあって通夜と告別式の予定を組み、無事終える事が出来た。
お骨になった母を見ると、もう二度と会えない事がはっきりと分かったが、まだやる事があるので茫然としたりする余裕はない。
母との日々を回想するのはもう少し経ってから。

妹の旦那と姪たち、そして何より妹には本当にお世話になった。心から感謝します
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